
よくあまりのすごさに恐怖すら覚えるというたとえで泣く子も黙る○○などという言い方でその人物を称することがありますね。
さて、語源はどこから?誰のことを称した言葉だったのでしょうね?
ブログ主Sこんにちは!明日役に立つとは限らない豆知識講座のお時間です!秘書Mまたそんなわけのわからない講座を開設して。。。ブログ主Sいいのいいの!
今日は【泣く子も黙る】の、語源になった人は誰?というお題です!秘書Mあぁ、よくその世界でトップをひた走る大物、王者クラスの方に使いますよね。【泣く子も黙る○○のお通りだ!】みたいな使い方でブログ主Sそうそう!それはどこから来た言葉なのか調べてみましたよ!秘書Mほんと。。。明日役には立たなさそうだけど、ちょっと興味あるな。。。ブログ主Sそもそも【泣く子も黙る】ってどんな時使う?秘書Mさっき言いましたけど、その道の王道を歩んで王者にまでなった人なんかに使うかなと思います!ブログ主Sそうだねぇ王者の風格を兼ね備え、近寄るだけで周りの人たちはひれ伏す。。。そんな圧倒的な力を持つ人に対して使うって感じかな。秘書Mそうそう。王様とかチャンピオンとか、ただ、そんな王者クラスでも多を近寄せないオーラがある人というか。。。ブログ主Sそうだね!さて、この言葉はある人物を評するのに用いられていた言葉なんだよ。秘書Mへぇそんな怖い人がいたんだ!ブログ主Sもうちょっとひも解くと、その人は存在していることが恐怖というか敵対すると赤子も泣き止むほど怖い人物だという意味で使われ始めたんだね。秘書Mと、いうことは、敵対するような相手、つまりは武将とか将軍とか?ブログ主Sそうそう!Mちゃん、理解が早いね!武将だね!秘書Mそうなんだ!てことは、織田信長とか?ブログ主Sあ~!
確かにイメージ的にはただ強いだけではなくて恐怖を覚える武将だよね!しかし残念!もっと昔からある言葉なんだ。
おそらく戦国時代には【泣く子も黙る信長が来るぞ】といった感じですでに使われていたんじゃないかな?
あと、信長より、僕的にはマムシと言われた斎藤道三の方がそのイメージかな?秘書Mえ~~!もっと昔。。。そうなると、武蔵坊弁慶とか?ブログ主Sおおっ弁慶!
弁慶はその死の際の姿、立ったまま死んだと言われているんだけどその姿が【立往生】という言葉になったんだよね。
そして残念ながら泣く子も黙るは弁慶ではないんだな。秘書Mうぅ。。。わかりません…ブログ主Sはははっ実はもっともっと古い時代の武将で、日本の武将じゃないんだなw秘書Mえぇぇ!!!そ。そんなのわかりません!秘書Mわ。わかんないしっ!!wwブログ主Sこの人は、張遼さんと言って、中国三国志時代の英雄だよ秘書Mおおおっ張遼さん!知ってる!三國無双でも使いやすい人だ!wブログ主Sォィォィ。。。そんな認識の仕方ってある?w秘書Mこれまたイケメンなんですよね♡ブログ主S本物はどっちかっていうとイケメンというより。。。だったみたいだけどね。秘書Mえぇ!そうなんですかぁ。。。ブログ主Sでね、張遼さん、なんで泣く子も黙る。。の語源なのか。知りたくない?秘書Mうーん。。。どっちでもいいです(キッパリ)ブログ主Sあいや。。。知りたくしてやろう。。。秘書Mそんなことできるんですかー(棒読み)ブログ主Sふっ。。。関羽さんて知ってる?秘書Mしってる!(キラッ)
赤兎馬に青龍偃月刀の人!ブログ主S(こ奴。。。絶対ゲームだな。。。)
そうそう。その関羽さん、蜀の五虎大将軍と言われた劉備・張飛と義兄弟のね。秘書Mおおおっ知ってる人いっぱいだ!ブログ主Sそうだね。みんなゲームに出てくる人たちだもんね(棒読み)
で、その関羽さんと張遼さん、敵同士なのに友情があったのって知ってる?秘書Mええっ?そんなことってありえるんですか?ブログ主Sまぁ確かに考えにくいことではあるんだけどね。でも、第二次大戦前、日本は英国と同盟を結んでて超仲良しだったのに、気づいたら宣戦布告までしちゃった仲だし、戦後日本が最も仲良しになった国は当時の最大の敵だった米国だからね。まーあり得るんじゃない?秘書Mま~言われてみたら。。。ジャイアントのび太なんかもそうかな?TV版ではいつもいじめられてるけど、大長編になったら永遠の友になるもんね。たぶん普段からいがみ合っているけど友情があるんだろうね。ブログ主Sう。うん。。。微妙にあってるしま~それで。
関羽さんと張遼さんは同郷なんだって。それがあって関羽がそうそうと戦って敗戦した時、助命を買って出たのが張遼さんだったりするんだよね。それで友情が芽生えたんだろうね。秘書Mへぇ!!なんか面白い!でも、そんな張遼さんが泣く子も黙る。。。の語源って。。。いまいちピンとこないなぁ。。ブログ主Sおっ興味出てきたかな?サーでは、本題に入ろうか。
張遼さんて、すごい武将なの。そのあたりはWikiでも調べてw
で、曹操さんから、魏と呉の境界線に当たる合肥というお城を守れと指示されたのね。楽進さんと李典さんと3人で。単純化してみれば、ちょっとやそっとで崩れない諸葛亮孔明率いる蜀には、曹操の一族で大将軍の曹真を大都督としてあたらせたんだけど、孔明に知恵では勝てないと見越していた曹操は副都督で参謀として司馬懿を付けて蜀を睨んでたのかな。では呉へのにらみは、名将楽進(のちに魏の五将軍と言われる一人)に城を守らせ、李典(こちらも後の魏の五将軍)に知恵を出させそして、猛将張遼の勇猛さを合肥に集めることで呉に恐怖を与えるという戦略に打って出たのかなと思うんだ。なかなか2方向に軍隊を同時に出して進行するというのは難しいと思うんだ。
実際、当時は呉は少なくとも魏に向けては尻尾を振る振りはよくしてたから、すぐに攻めてくるようなことはないから守りを固めて、にっくき劉備率いる蜀へ進撃したいと曹操は考えていたんだろうね。だから大将軍と参謀を蜀側に配置したのかな。秘書Mうんうん。(ちょっとずつ面白くなってきた。。。)ブログ主S曹操さんの指示はね、楽進は合肥の城を守りを固めて守ってろと。李典と張遼にはせめて来たら打って出ろと指示してたらしくてね。実際呉は幾度となく合肥を攻めてるんだけど結局陥落できなくてね。攻めるたびに張遼さんの逆襲にあうわけw秘書M逆襲の張遼だwブログ主Sたぶん、守り切れたのは、楽進さんという名将が後ろで城をがっちり守っててくれたことと、そりは合わないけど、戦争となると一致団結することができた李典さんの策略なんかもあって、合肥は難攻不落の城。。。それどころか攻めると痛い目にあうという呉にとっては恐怖の城だっただろうね。
孫権さんは、何度も張遼に打ち破られ何度も死の恐怖を覚えて逃げ帰ったって伝えられてるのね。秘書Mこ。こわい。。。ブログ主S張遼さんも歳をとり病気になったときも合肥にいたんだけど、孫権さんは最前線の将たちにこう伝えたそうだよ。
【歳をとり病気になったとしても張遼は張遼だから気を付けるというか合肥を攻めるなっ!】的な。秘書Mえ?現代言葉?ブログ主Sそれは僕がわかりやすくしただけwそのくらい恐怖を感じてたんだってさ。
なので、あのあたり周辺では子供が泣くと、張遼が来るぞということで子供が泣くとあやす言葉として、【遼来遼来】と言われるようになったんだって。ま、ようは、日本でいえばなまはげ的なw秘書Mえ?ここにきてなまはげ扱い!かわいそうw ブログ主Sま、ようは、恐怖で声が出ないという感じの扱いかな。あやすというより脅すと言った方がいい気もするけどね。。。秘書Mですよね。。。ブログ主Sそれを文章にすると【泣く子も黙る張遼】ということになるよね。泣く子も黙るというのは、あまりのすごさに声も出ない存在というような意味合いで使うわけなんだね。秘書Mそうなんだ!なるほど。。。声も出なくなるほどの存在。。。なるほど。。。てか、張遼さん、どれほど恐れられてたのか。。。wブログ主Sはははwでも、魏の武将の中では最も人気の高い武将の一人だね。武骨で友情に厚くて賢くてそれでいて強い。だから愛されるのかな?秘書Mなまはげ扱いですけど、人気も高いんですね!